第1部第1篇ー第2部第2篇:藤沼貴訳(岩波)
第2部第3篇ーエピローグ:米川正夫訳(同上)
と読んで、どちらも解説が読めなかった(例えば米川訳は第1巻末についてたのかな)のは残念。読み比べて、特にこっちがいい、というのもなかった。藤沼訳(新訳)は親しみやすさに配慮していて、「当時のロシア社会におけるフランス語とは」といったコラムが所々にあるのはありがたい。しかし、登場人物の呼称(ナターシャ、ナタリイなど)を統一していて、たしかに助かるときもあるだろうけど、人物に親しんできた後半ではどうかなあ。米川訳はコラムも呼称の統一もないけれど、特に読みにくいということもない。要するに、どっちでもいいということ。
日常(社交界)と戦場という舞台で繰り広げられる群像劇や、フリーメーソンや捕虜生活という魂の遍歴をピエールが経験した後で、終盤で彼の再婚が描かれるとき、序盤でのエレンとの恋愛(のようなもの)に思いを馳せて空想にふけらないではいられない。個人的には、ペーチャ・ロストフ、『カラマーゾフの兄弟』におけるコーリャ・クラソートキン的存在の少年に特別関心がある。
しかし、作品としては『アンナ・カレーニナ』のほうが好きかなあ。どちらも一度読んだだけでは何とも言えないか。ナポレオンのような「英雄」が歴史においてどれだけの役割を果たしたか(ただの歯車のひとつに過ぎない)、そもそも戦争の原因を特定しようとする試みに意味があるのか、といった考察はおもしろいけど、あんまり興味ない。ああ、「歴史とは」ってマルクスがなんか言ってましたっけ。
「完全な純粋の悦びがありえないように、完全な純粋の悲しみもありうるものではない」(米川訳、第4巻、p. 266)
という一節。村上春樹は『風の歌を聴け』の冒頭をここからとったのかなあ。鼠が『戦争と平和』について「長いのがいい」と言及していることも考えると、あながち検討外れとも言えないのではないか。冒頭に警句的文言を持ってくるというのは『グレート・ギャツビー』だろうけど。”Whenever you feel like criticizing anyone, just remenber that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.”
ともかく、ここから村上春樹が『戦争と平和』から受けた影響が云々、なんてのは意味も意義もまったくないでしょうねえ。


