1. ゴリオ爺さん

    ゴリオ爺さん

     
  2. 戦争と平和 (2007)
ナターシャたん萌え

    戦争と平和 (2007)

    ナターシャたん萌え

     
  3. 戦争と平和:最大の魅力は文体や作品の構造であって、歴史についての考察ではない

    第1部第1篇ー第2部第2篇:藤沼貴訳(岩波)

    第2部第3篇ーエピローグ:米川正夫訳(同上)

    と読んで、どちらも解説が読めなかった(例えば米川訳は第1巻末についてたのかな)のは残念。読み比べて、特にこっちがいい、というのもなかった。藤沼訳(新訳)は親しみやすさに配慮していて、「当時のロシア社会におけるフランス語とは」といったコラムが所々にあるのはありがたい。しかし、登場人物の呼称(ナターシャ、ナタリイなど)を統一していて、たしかに助かるときもあるだろうけど、人物に親しんできた後半ではどうかなあ。米川訳はコラムも呼称の統一もないけれど、特に読みにくいということもない。要するに、どっちでもいいということ。

    日常(社交界)と戦場という舞台で繰り広げられる群像劇や、フリーメーソンや捕虜生活という魂の遍歴をピエールが経験した後で、終盤で彼の再婚が描かれるとき、序盤でのエレンとの恋愛(のようなもの)に思いを馳せて空想にふけらないではいられない。個人的には、ペーチャ・ロストフ、『カラマーゾフの兄弟』におけるコーリャ・クラソートキン的存在の少年に特別関心がある。

    しかし、作品としては『アンナ・カレーニナ』のほうが好きかなあ。どちらも一度読んだだけでは何とも言えないか。ナポレオンのような「英雄」が歴史においてどれだけの役割を果たしたか(ただの歯車のひとつに過ぎない)、そもそも戦争の原因を特定しようとする試みに意味があるのか、といった考察はおもしろいけど、あんまり興味ない。ああ、「歴史とは」ってマルクスがなんか言ってましたっけ。

    「完全な純粋の悦びがありえないように、完全な純粋の悲しみもありうるものではない」(米川訳、第4巻、p. 266)

    という一節。村上春樹は『風の歌を聴け』の冒頭をここからとったのかなあ。鼠が『戦争と平和』について「長いのがいい」と言及していることも考えると、あながち検討外れとも言えないのではないか。冒頭に警句的文言を持ってくるというのは『グレート・ギャツビー』だろうけど。”Whenever you feel like criticizing anyone, just remenber that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.”

    ともかく、ここから村上春樹が『戦争と平和』から受けた影響が云々、なんてのは意味も意義もまったくないでしょうねえ。

     
  4. 方丈記:ほかの「方丈記本」に比べて本書がどういう意義を持つのか不明

    『方丈記』(著:鴨長明、校訂・訳:浅見和彦、ちくま文芸文庫、2011年)

    文章のリズムは素晴らしいし、何より読みやすい。全文は例えば青空文庫で読める。日本で最初期の優れた文芸作品であり、漱石が愛読し、また度重なる震災の精緻な描写や、俗界から離れた隠遁生活のことを……なんてのも、まあわかる。

    だけどなあ、この解説(40ページの原文のあとはずっと解説です)を読んでも、現代人が『方丈記』を読む意味とか、他にも多くあるだろう「方丈記本」と比べて本書の持つ意義とか、評者が何を意図して書いたのかということが、まったくわからない。

    まあ方丈記は随筆だから、この素晴らしい文章表現と著者の思想に触れる……それ以上の意味はないのかもしれない(そういうことをずばりと言い切るナボコフの講義が、僕は好きだ)。それならそれでいいのに、方丈というおよそ5畳半の住まいを誇るくだりについて、欧米人には揶揄されるけど我々日本人は昔から狭い家が好きだったとか。手先の器用なことについて、彼はレオナルド・ダ・ヴィンチほどではないにしても自分であれこれ発明するのが得意だったようだとか。震災や庵の詳細をできるだけ正確に記そうとするあたり、彼は理系的なところがあったようだとか(理系的ってなんだね。せめて科学的/合理的としてください)。自ら体を動かすことが何より健康にいいというくだりについて、あたかも現代の健康ブームを先取りしたようだとか。うーん、論文では書かないような、「一般向け」を狙った表現なのかな、と勘ぐってしまう。そしてそれはうまくいっていない。

     
  5. 「わかりやすい化学熱力学」を目指したんだろうけど、内容が薄すぎたり、説明が足りなかったり

    基礎から学ぶ化学熱力学(齋藤勝裕、サイエンス・アイ新書)

    おそらく、本書の目指す内容はこんな感じではないかと考えます:

    「(簡単な説明で)化学を専門に勉強したことのない人が、化学熱力学という学問がいかに素晴らしいか、その一端を知ることができる。また、化学を専門にしていながら熱力学で挫折した人にとっても、(再)入門書となる」

    残念ながら、その狙いが成功しているとは言えないと思います。

    まず、読者が大学で化学、熱力学のことを少しでも学んだことのある場合。

    つまり、「エントロピーっていうものがあって、これは反応の可逆性/不可逆性にとって決定的に重要である」程度のことを知っている場合。そういう人は、本書を読んでも得ることはほとんどないでしょう。

    次に、読者が非専門家の場合。

    結合性軌道とか、ギブズエネルギーとか、そういうものを考えるといろいろと便利なんだー。

    ということは、わかるかもしれません。でも、それだけ。

    「この時の温度を○○といいます」「この場合の関係式は△△で表されます」ばかりで、これらがどれだけ豊かな物理的意味を持っているのか、本書から学べることはほとんどありません。

     
  6. ミッドナイト・イン・パリ

    1920年代のパリで20世紀を代表する芸術家たちの繰り広げる華やかな群像劇、こういうのはどうせ皆さんお好きでしょー、と「ノスタルジーの商品化」でゴリ押しするのではなく、映画としてうまくまとまっていておもしろい。

    バカなブロンド女に惚れ(て婚約し)たり、ジョイスの行ったとされるレストランにこだわったり(その魅力は、わかる人にしかわからないことに気づいてない様子)、小説を書こうとしてるけど書けない主人公、そんな彼が――まったく月並みに言うと――自我を確立していく物語。昔はさぞかし良かったであろう、と憧れるだけの懐古主義では何にもならないんだと気がつく。

    主人公と対比されるのは、というか彼が一目惚れするのは、20年代において、つまり黄金時代のパリにおいて、ああ昔はよかったんだろうなあ、私は生まれる時代を間違えてしまったのかしら、という(現代でもときたま目にするクサレサブカル女のような)アドリアナ。彼女とともにさらに時代を遡った主人公の語るシーンでは、おうおう主人公が全部セリフで説明してくれちまうな、とも思ったけれど、まああそこはクライマックスですからね。

    ところで、ヘミングウェイはおそらく『武器よさらば』出版後という設定だけど(そういや『武器よさらば』上巻しか読んでない)そうすると1929年ですか。世界恐慌のことを思うと……云々というのは野暮ってもので。何も考えないで観ても、20年代のパリに迷い込んで、という設定だけで楽しめる。

     
  7. 『アメリカ音楽史』は序文と本文で主題(偽装)の扱いが異なるのではないか?→解決、そんなことはない

    大和田『アメリカ音楽史』は「自己表現としての音楽」ではなく、偽装、すなわち他者になりすますことを駆動力としてアメリカ音楽が発展してきたことを論証する大変おもしろい本なんだけど、主題の導入に疑問点がある。

    つまり、序文では「偽装『願望』がアメリカ音楽の中心に備わっていることを論証する」とあるんだけど*、本文では、(願望があったかどうかは触れずに)「偽装」を説明原理として導入している。これは矛盾、あるいは序文として不適切ではないだろうか。なぜなら、――「偽装」が本書の根幹をなす主題であることは言うまでもないとして――アメリカ音楽を貫く縦糸として「偽装」行為があることは本書においてかなり説得力のある形で提示されているけれど、彼らに「偽装願望があった」とまで言ってしまうと、そうとも言い切れない、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、といった部分が出てきてしまうのではないかと思う。黒人ブルースマンが白人の要望に応えてエレキをアコギに持ち直す、これはたしかに「偽装」だし、白人の欲望を内面化する黒人、という「ダイナミックな欲望の交換」もたしかにあると思う。だけど、彼らに偽装願望があったか……それを論証することはかなり困難なのではないか。

    *「はじめに」にはこうあります。

    >だが、本書はこうした素朴な実感に反して、アメリカのポピュラー音楽を駆動してきたのは「他人になりすます」欲望であることを論証する。自分を偽り、相手に成り代わり、別人としてふるまい、仮面をかぶる、こうした<偽装>願望が創造力の中心に備わっており、その欲望を原動力としてアメリカのポピュラー音楽は発展してきたのだ。

    また、裏表紙にはこうあります。

    >音楽シーンの中心であり続けたそれらのサウンドは、十九世紀以来の、他者を偽装するという欲望のもとに奏でられ,語られてきた。

    これらの文章から、「アメリカのポピュラー音楽の中心には偽装願望がある」と著者は考えているのだろう、と読み手が思うのは、そう悪意のある読み方ではないと考えます。


    付記。twitterで反応があったので、togetterしました。

    結局、私の理解&知識不足だということで解決。具体例をいくつも挙げられてみると、説明原理として偽装(およびそれへの願望)を導入することでいかに多くのことがすっきり説明できるかがよくわかる。

    ご指摘頂いた皆様に感謝します。

     
  8. 村上龍『超伝導ナイトクラブ』:気楽に読むには悪くない

    銀座の路地裏にあるバー、通称「超伝導ナイトクラブ」に集うのは光ファイバーや遺伝子工学などの先端技術を専門にするハイテックなスノッブたち。バカラのグラスでシャンパンを水のように流し込み、変態性癖を晒し、それぞれの抱える悩みを(非合法な)先端技術で解決する。

    まことに悪趣味というほかないが、超伝導ナイトクラブに巣食う80年代後半の成金に対し、英国帰りの一見さんを登場させて、いるよねえ、こういう「スタイルのない人たち」と鼻で笑わせたり(結局彼も小市民ということがわかるんだけど……)、田舎者のホステスが「なんかああああ、ママさんってええええ、わかってるうって感じっていうかあああああ」から突如としてハーレクインロマンス作家へと変貌を遂げ客観的な独白をし、挙句その反動としてものすごい罵倒表現を吐き散らし……などなど、吉行淳之介が芥川賞の選評で「因果なことに才能がある」と評したのももっともだなあと改めて納得。浣腸やムチ打ちと超伝導の専門用語をごちゃ混ぜにラップをかますなんてのにはのけぞった。

    雑誌に不定期連載という形式をとった本作は、各章が矛盾しないように配慮するなんてもともと気にしてないようだし、読んでいてだらけるところもある。『半島を出よ』のような壮大な長編に比べればたしかに劣るけど、これはこれで悪くないと思います。

     
  9. 23:15 12th May 2012

    Notes: 1

    Tags: book

    シン『フェルマーの最終定理』:350年に渡り数学の最高の難問として君臨した定理の証明やその意義を明快に書いた素晴らしい本

    暗号解読』のサイモン・シンの出世作。

    ピュタゴラス教団について触れた後で暗黒の中世をすっ飛ばして17世紀のフェルマーに至るのは、『磁力と重力の発見』で近代科学が成立するまでにいかに重要な発展が(時に大きな回り道や高い障壁があっても)蓄積されたかを読んだ後ではなあ、と鼻息を荒げて読んでいたけれど、フェルマーが座右の書として学んだのがディオファントスの『算術』か……ならば仕方あるまい。

    フェルマーの生きた17世紀の社会状況を丁寧に描写し、その後、最終定理への挑戦を、天才数学者オイラー、谷山・志村予想、そしてついに最終定理を解いたワイルズまで明快に書かれている。最終定理を解くまでの道のりは数学の最高峰なわけだけど、本書を読めば、偉大な女性数学者ジェルマン、ゲーデルの不完全性定理、といったこともなんとなくはわかるようになる。無限ホテルの話とか、嘘つきのパラドックスとか、たまにtwitterで流れてくる「ある経済学者と物理学者と数学者が……」なんかの元ネタもある。無理数の証明など補遺も充実している。

    350年も完璧な証明を拒んできた問題があったということ、そしてその定理の証明には現代数学の粋が詰まっていた、というのは数学という文化の素晴らしさをまざまざと語っているし、非専門家には(専門家であっても、らしい)理解が極めて困難である数論の世界を、なるべくごまかすことなく、かつ明快におもしろく書いた素晴らしい本。

    もともとはBBCのドキュメンタリーで、公開されている

    NHKによる吹き替えはこちら

     
  10. bridges to babylonコンサートがそのままあがってるじゃねえか

    この年でミックの動きに笑&目が離せない

     
  11. 02:04

    Tags: music

    1分20秒あたりで感極まってるおっさん、you are my friend…

     
  12. 冒頭のやりとりがなぜか日本語字幕

    Charlie Parker & Dizzy Gillespie