大和田『アメリカ音楽史』は「自己表現としての音楽」ではなく、偽装、すなわち他者になりすますことを駆動力としてアメリカ音楽が発展してきたことを論証する大変おもしろい本なんだけど、主題の導入に疑問点がある。
つまり、序文では「偽装『願望』がアメリカ音楽の中心に備わっていることを論証する」とあるんだけど*、本文では、(願望があったかどうかは触れずに)「偽装」を説明原理として導入している。これは矛盾、あるいは序文として不適切ではないだろうか。なぜなら、――「偽装」が本書の根幹をなす主題であることは言うまでもないとして――アメリカ音楽を貫く縦糸として「偽装」行為があることは本書においてかなり説得力のある形で提示されているけれど、彼らに「偽装願望があった」とまで言ってしまうと、そうとも言い切れない、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、といった部分が出てきてしまうのではないかと思う。黒人ブルースマンが白人の要望に応えてエレキをアコギに持ち直す、これはたしかに「偽装」だし、白人の欲望を内面化する黒人、という「ダイナミックな欲望の交換」もたしかにあると思う。だけど、彼らに偽装願望があったか……それを論証することはかなり困難なのではないか。
*「はじめに」にはこうあります。
>だが、本書はこうした素朴な実感に反して、アメリカのポピュラー音楽を駆動してきたのは「他人になりすます」欲望であることを論証する。自分を偽り、相手に成り代わり、別人としてふるまい、仮面をかぶる、こうした<偽装>願望が創造力の中心に備わっており、その欲望を原動力としてアメリカのポピュラー音楽は発展してきたのだ。
また、裏表紙にはこうあります。
>音楽シーンの中心であり続けたそれらのサウンドは、十九世紀以来の、他者を偽装するという欲望のもとに奏でられ,語られてきた。
これらの文章から、「アメリカのポピュラー音楽の中心には偽装願望がある」と著者は考えているのだろう、と読み手が思うのは、そう悪意のある読み方ではないと考えます。
付記。twitterで反応があったので、togetterしました。
結局、私の理解&知識不足だということで解決。具体例をいくつも挙げられてみると、説明原理として偽装(およびそれへの願望)を導入することでいかに多くのことがすっきり説明できるかがよくわかる。
ご指摘頂いた皆様に感謝します。








